かも川手延素麺トップ > 麺博士 > 手延べ麺の歴史

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![]() 麺が生まれたのは中国。いまから、およそ1700年ほど前の魏の時代のことであるといわれています。わが国へ伝えられたのは7世紀頃のことで、中国、高句麗の僧侶、曇微によってもたらされたと伝えられています。 索餅とよばれて、もち米の粉をこねて、細くのばして縄のようにねじりあわせた、お菓子の一種であったと考えられています。 この索餅がそうめんのもとになるので、室町時代になると、索麺とか素麺の字が使われるようになりました。この頃になると、さまざまな工夫がくわえられて、つくり方や姿も今のそうめんにほぼ近いものへと進化しました。 そして、江戸時代に入ると、一気に庶民層にも広がって、麺文化は暮らしの中に定着して行きました。 ”麺好きの日本人”は、実は、この江戸時代につくられたといってもいいかもしれません。 |
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この時代には、そば屋、うどん屋といった、さしずめいまでいう外食産業の走りのような商売も生まれ、庶民社会の中に新しい食文化が誕生したのです。 わたしたちが、日本古来の食べものだとばかり思っていた麺も、元を正せば、実は外国からやってきた舶来の食べものであったのです。 ![]() |
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![]() 岡山県の手延べ麺の主な産地は鴨方です。この鴨方が麺の産地として発達した理由は、遥照山から涌き出るきれいな水、瀬戸内海の沿岸でとれていた塩、それと、周りに良質の小麦の産地があったことなど、麺をつくる材料に恵まれていたことがあげられます。 わが国へ伝えられて200年ほどのちの9世紀頃にはすでに、”吉備の国に麦切と称して広く分布し...”と、この地方で麺づくりがおこなわれていたことが書き残されています。 さらに、時代がさがって、いまからおよそ400年くらい前、天正の頃になると鴨方を中心に、岡山県の西南部、備中地方の南部一帯は、手延べ麺の産地としての形をととのえて、栄えていました。 その後、江戸時代の後半に水車の利用がさかんになり、粉ひきが人力から水力にかわることで、粉の入手が手がるになると麺づくりもますますさかんになりました。 産地とはいえ、はじめの頃は、農業の暇な冬の間の農家の副業の色合いの濃かった手延べ麺づくりも麺づくりを専業にする人たちが現れるようになって、明治の終わり頃になると兵庫県の播州に次ぐ産地として知られるようになりました。 そして、品質の優れた”備中の麺”の名を全国に高めて行きました。 ![]() |
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